ドライヤーは→この時買いました
上京する時に買ったドライヤーは、今日も元気にオレの髪を乾かす。
強と弱、あとは冷風と、三段階の切り替えスイッチが付いただけのシンプルな機械は、よほどのことがない限り、これから十年経ったって、今と同じように風を送ってくれていそうだ。
なら去年買った、マイナスイオンが出るとかいうドライヤーが日の目を見るのは一体いつになるんだろうかと、髪を乾かすたびにオレは思っている。
「よし、いいぞ」
「ありがとう」
その新しいドライヤーを買った張本人は、最早ドライヤーを買ったことすら忘れている気がしないでもない。
こいつは物を買うこと自体が好きなだけで、買って満足あとは放置なことがすごく多い。
余計な物をこっそり買って、ただオレに叱られたいというのも密かな事実だったり。
つまり間違いなくこいつは、Sの仮面を被ったドMだ。
「ふんふんふーん」
オレがそんなことを思っているとは露知らず、お風呂上がりでご機嫌なのか、鼻歌混じりの<俺>は今度は自分の髪を乾かすためにドライヤーのスイッチを入れた。
ほぼ毎日恋人に髪を乾かしてもらってるなんて、よく考えると……いや、よく考えなくても恥ずかしい行為だけど、<俺>に髪を乾かしてもらうのは気持ちいいし、なにより<俺>がやりたがるんだから仕方ないじゃないか。
なんて、誰に言い訳してるんだか。
鼻歌からついには小さく歌いながら風を浴びる<俺>を背後に、滴の残る浴室をスポンジモップで軽く拭いたあと、洗面所と繋がったクローゼットに移動する。
ふたり分の洋服がひしめく中真っ先に目に入るのは、作りつけの棚の上で、まるでここは自分だけの場所だと言わんばかりに存在を主張するガラスの箱。
数十本にも及ぶ、<俺>の眼鏡が収められたコレクションケースだ。
よく掛けるお気に入りの眼鏡は六本収納できるタワー型のケースに、その他気分次第で選ばれる眼鏡たちは四段重ねの引き出し式のケースに、文字通り箱入りで大切に収められている。
引き出し式のケースのほうは、ガラス張りの正面と左右の面以外には黒みがかった赤い本革が張られ、なんだかいかにもお高いんです私という澄ました雰囲気がする。
ふたりで暮らし始めてしばらくした頃だった。増えた眼鏡をまとめて収納できるケースが欲しいと<俺>が言った翌日、家に帰ると玄関に鎮座していたこのふたつのケース。
我が儘王子の願いを健気に叶える、怪しい魔法使いの届け物。
目は悪くないけど、気分の切り替えみたいなものかなと説明しておいている、掛けたり掛けなかったりする度のない眼鏡が、本当に『切り替え』の役目を果たしているなんて、誰も知らない。知ったところで、信じる人なんていないだろう。
その日掛けた眼鏡は一日の終わりにきれいに磨いてやって、きちんとケースに仕舞ってますなんて言ったら、どんだけ眼鏡大事なのと笑われそうだ。
だってオレたちにとっては、この眼鏡はただの眼鏡じゃない。
外でオレと<俺>を切り替える、大事なアイテム。
同じ体にオレとお前が確かにいるんだと、証明してくれるものだから。
今日掛けていた銀縁の眼鏡も、お風呂に入る前にオレが丁寧に手入れをして、今はタワー型のケースにゆったりと収まっている。
まあ……いろいろあってオレができない時は<俺>がするけど、基本的に毎日の眼鏡の手入れはオレがするというのが、いつからかお決まりの流れになっていた。
無駄にこだわりの強い<俺>が、自分のアイデンティティに深く関わることの一部をオレに任せてくれている。些細なことだけど、なんだかちょっと嬉しいんだ。
<俺>ご自慢のコレクションが威厳を放つ横で、明日の着替えやなんかを用意していると、髪を乾かし終えた<俺>がクローゼットに入ってきた。
寝室には向かわずに真っ直ぐにオレのところまできて、後ろからぎゅっと抱きついてくる。
「まだ?」
子供がおねだりするような甘えた声が、耳元で囁く。
最近の<俺>は、甘えてかわいこぶるのがブームらしい。とにかくべたべたに甘えて、かわいい顔で見つめてくる。
けど時々飽きるのか、急につんつんクールな態度の時もあったりして。
気まぐれな甘ったれの相手は苦労するけど、そんなめんどくさいとこもかわいいなんて、思ってしまう。
<俺>の思い通りに踊らされてるのか、オレが踊ってやってるのか。案外後者のほうが多いかも。
「早く」
パジャマの裾から差し入れられた指先が、つっと肌を撫でる。
<俺>が待っていること。求めているもの。
それは、オレだって同じ。
「すぐ行くから、待ってて」
顔だけ振り向いて顎を上げると、首元にくっついて匂いを吸い込んでた甘ったれは、すぐさま嬉しそうに唇を重ねてきた。
柔らかく触れるうち徐々に深いキスに移行しようとするのを笑って止めて、まだ駄目と頭をぐりぐりこすりつけてやる。
<俺>は拗ねたようななんだかよく分からない呻き声を出して、お返しにオレにもぐりぐりとしてくる。
「わーもーやめろよー」
<俺>が丁寧に乾かしてさらさらと滑る髪をこすりつけて、ふたりで笑う。そうしてしばらくじゃれ合って、最後にまた軽く唇を合わせて見つめ合ってから、<俺>が寝室へ入っていく。
明日は新規プロジェクトの初回打ち合わせだから、ネクタイは情熱の赤にしようと選んだあと、眼鏡はきっとあれを選ぶはずと予想しながらクローゼットの明かりを消して、オレも寝室に入る。
朝<俺>がどの眼鏡を選ぶか。前の日に予想して、当たったら今日はいいことあるとか運試しにしてるのは、<俺>には内緒だ。
「ぶっ」
寝室に入ると、横向きで肩まですっぽり布団にくるまって、目一杯のかわいい顔を作って見つめる<俺>と目が合った。
わざとらしいぶりぶりの表情に、思わず噴き出す。
「なんなのそのかわいこぶりぶりブーム」
「かわいいだろ?」
「自分で言うなよ」
呆れて鼻先をつまむと、目を細めて満足げに口角を上げる。
そういう顔が猫みたいでかわいいと、オレが思うことを知っていて。
<俺>風に言えば、「まったく、浅ましいやつだ」ってとこかな。
「かわいこぶるのはオレの特権だったのに」
「それこそ自分で言うなよ」
「かわいこぶったらお前ちょろいし」
「……そんなふうに思ってたのか」
「おっと、心の声が口に出た」
「このっ」
「あはははは! ごめん! やめて、ごめん、やめろー」
オレが一番くすぐったがる部分をピンポイントに突いて、容赦なく指を掻く。
気が変になりそうなくらいこそばゆくて、<俺>から離れようと必死で暴れるけど、狭い布団の中じゃ当然逃れようがない。
「やめて、やめて、お願い、ほんと、ごめんて」
笑いすぎて息も絶え絶えに懇願すると、<俺>はくすぐるのをやめて、体重をかけてのしかかってきた。
見合った<俺>は怒ってるような顔をしているけど、口元は笑ってる。
「もう。くすぐったいし。重いし」
「ふん。ちょろいとか言うからだ」
「ほんとのことだし」
「お前はっ!」
「あっ! 嘘です! 嘘! 冗談!」
またくすぐろうとした手を慌てて押さえて止めて、えへへとわざとかわいこぶって見せると、<俺>はむっすりしたまま、くすぐるのとは違う動きでパジャマ越しの胸元を撫でた。
「んっ」
殊更意図を主張する手つきに思わず息を飲むと、<俺>は意地の悪い顔で笑った。
「お前だってちょろいな」
「……もう」
期待通りのオレの反応に、<俺>はしたり顔をして抱きついて、胸元にごしごし顔をこすりつける。
やっぱりくすぐったくて体をよじっても、きつく抱きしめられていて身じろぎもできない。
だからオレからも、ぎゅうっと強く抱きしめてやった。
「ふるひい」
苦しい、と言ったらしい<俺>は、強引にオレの目の前まで体を上げて、鼻先がくっつく距離で見つめ合う。
これぞ<俺>という不遜な笑みが、間近でオレを見つめる。
かわいい顔もかわいくて好きだけど、こういう自信たっぷりのかっこいい顔もかっこよくて好きで、もうなんだか<俺>が好きで好きで、胸の奥がきゅっとした。
「ちょろいな」
「……うるさい」
馬鹿にする口調の悔しさを、数センチ先にあった唇に噛み付いてぶつける。
唇を塞がれながらも<俺>は声を出して笑って、宥めるようにオレの頭を優しく撫でた。
その心地いい手つきに一瞬で力が抜けた自分に、ほんとオレってちょろいなと心の中で溜め息をつく。
だって<俺>だから。この世で一番大切な、愛しいオレの半身だから、かわいいって、かっこいいって、好きだって、一挙一動にいちいちときめくのは、当然のことなんだ。
「ん、ん、んっ」
さっきは止めた深いキスをもう遠慮はなく交わせば、あっという間に全身が熱くなる。
それはオレも<俺>も同じだと、重ねた体が教えてくれる。
いつも同じ。毎日同じ。確立された様式美。
何気ない日常の不変な夜が、今日もこうして始まる。
そこからここまで △
2013.11.11