アップ後に矛盾に気付いて辻褄合わせるために分裂同居数年後の設定に
「温泉に行きたい」
連休前夜、こいつは唐突に呟いた。
「行ってこい」
「ちーがーうよー、ふたりで一緒に行きたいんだよ」
「馬鹿か」
「バカって言うなバカ」
子供みたいに頬を膨らませて、俺のシャツの裾を引っ張る。
馬鹿は馬鹿だ。
俺達は家ではこうして当たり前にふたりでいるとはいえ、一歩でも外に出るとひとりの佐伯克哉になるんだから、ふたりで温泉なんて戯言もいいとこだ。
「無理なこととはオレだってわかってるよ。だからこそ行きたくなるもんだろ」
引っ張った裾を左右に揺らし、口先でもそもそと言う。
「なんで温泉なんだ」
面倒だが、暇潰しに一応話しに付き合ってやる。馬鹿な半身は相手にされたことを喜んで、目を輝かせる。
「この前さ、お母さんが電話してきたじゃん。連休お父さんと九州の温泉巡りだって。それで羨ましくて、色々ネットで見たら行きたくてたまんなくなってさ」
そういえば先々週、母親が電話口でそんなことを言っていた。
受け答えしたのは俺で、電話を切ったあとで話しの内容を簡単に伝えると、いーないーなと連呼していた。
その場ではしきりに羨ましがっていたが、そのあとは温泉のことなんて気にした素振りも一切見せなかったから、今更行きたいと言い出すとは思わなかった。
「いつの間にネットでなんて」
「絶対お前にバカにされると思ったから、オレが表の時は温泉のことは考えないようにして、家でお前が見てない時にこっそり調べてたんだ」
「……馬鹿か」
「だからバカって言うなバカ」
引っ張っていた裾を今度は指にぐるぐると巻き付ける。これ以上やられると、完全に生地が伸びる。
「いて」
さらに巻き付けようとする手を軽くはたくと、痛くないくせにわざとらしく痛がって、反対の手でさすりながら引っ込める。
「Mr.Rにさー、頼めない? 外でもふたりになれるように。一日だけとか……一時間だけでも」
「お前が言え」
「だってオレMr.Rがどこにいるか分かんないし。オレが言っても聞いてなんかくれないし」
ソファの上で膝を抱えていじける。いくつだ、お前は。
「温泉、ふたりで入ってさ。おいしいもの食べて、おいしいねって、言い合いたいんだ」
うちの両親は仲がいい。幼心にもそう思っていたし、今もそう思う。
ひとり息子が上京してすっかり手が離れてからは夫婦仲はますます良好なようで、野暮な気がして帰省するのも遠慮しがちになるほどだ。
旅行に出掛けることも多く、その度に、この前あそこに行ってあれを食べてすごくおいしくて感動したや、お母さんがこっちを注文してお父さんがあっちを注文して半分こしたとか、わざわざ報告、というよりは惚気の電話を掛けてくる。
三十を前にして両親の惚気を聞かされる息子の身にもなって欲しい。
つまりはお前は両親みたいな、ああいうことを俺としたいということなんだろう?
それはよく分かっている。
「あの男に言ったって、そうそう叶えてくれることじゃないと思うが」
「そう……だろうけど……」
俺達は、外では決してふたりにはなれない。
まるで、ここにこうしてふたりでいられることの犠牲のように。
それならそれでいいと俺達は結論付けた。
ふたり並んで手を繋いで日の当たる道を歩けずとも、お前と一緒にいられるなら、闇の淀んだ狭い牢に枷を嵌められ閉じ込められたって構わない。
ただ、馬鹿な半身は少しばかり欲張りだ。
それだけは叶う時がこないだろうことを、こうして時々もしかしたらと淡く期待する。
「俺とこうして家の中だけでいるのは不満か?」
「そうじゃないよ! そんなこと、絶対ない」
合わせた膝頭の間に鼻先を突っ込んで黙ってしまった<オレ>が、勢いよく顔を上げて即座に否定する。
ああ、それもよく分かってる。少しいじめただけだ。
「温泉の素でも買ってくるか?」
「温泉の素?」
「ああ。まだドラッグストア開いてるだろ」
「でも……お前入浴剤とか嫌いだろ?」
「いらないのか?」
「…………いる」
お前の望みはなんでも叶えてやる。だが、こればかりはさすがの俺もどうしようもない。
それならせめて、雰囲気だけでも作ってやろう。
できることとできないこと、最善を選択すれば、妥協も悪いことじゃない。
「刺身くらいならまだ入るか?」
「!! じゃあスーパーも行く!?」
「この時間でまだあるかわからないけどな」
「ないなら山の幸にすればいいよ。あとはやっぱ日本酒?大吟醸?」
「辛口な」
「うん!」
「冷やして、木の桶、はないから洗面器に乗せて湯舟に浮かべるか」
「!!! お前すごいな!!」
「景色はどうにもできないから我慢しろ」
「いいよそんなの全然! 十分だよ! なんだ、もっと早く言えばよかった!」
さっきまでのしょぼくれた顔はどこへやら、満面の笑みで、抱えた膝を揺する。
「どこの温泉地のがいい? オレ濁り湯がいい!」
「好きにしろ」
もう大はしゃぎだ。お前は単純だな。
善は急げと、<オレ>が鞄に入れたままの財布を取りに行く。
先に玄関で待っていると、しばらくしてやってきた<オレ>は、さっきのテンションとは裏腹に、どこか泣きそうな顔をしていた。
「どうした」
答えず同じ靴を履くと、俯いて動かなくなる。
どうした、ともう一度口にする前に、両手をきゅっと握られた。
「ありがと」
俯いたまま小さく小さく言う。
なんだ、そんなことか。
「ありがと」
握った手を震わせて、同じことを言う。
その弱々しい手を解いて、そっと抱きしめる。
「ごめん、オレ、バカで、欲張りで」
「ああ、そうだな」
「うん。ごめん」
お前の望みを叶えてやれない。それが何より口惜しい。
俺がそう思っていることを、お前はよく分かっている。
──お前がそばにいて、抱き合って愛し合ってそれだけで幸せなのに、これ以上オレは何を欲しがってるんだろう。
──強欲なオレのせいで、<俺>を傷付けてしまった。
どうせそんなことを考えて、自己嫌悪に陥ったんだろう。
「ごめん」
「分かってる」
お前はただ、俺のことが好きで好きで好きで、もっとずっと一緒にいたいと思っているだけだ。
お前が俺を今以上に求めていることに、どうして俺が傷付くんだ。
馬鹿な俺の半身。
首元に僅かに冷たい感触がする。泣いているらしい。
「明日にするか? 温泉旅館ごっこ」
頭を撫でて優しく聞くと、俺にこすりつくように首を横に振る。
「今日がいい。今がいい」
ぎゅっと抱きついてきたから、強く抱き返す。
「<俺>」
「ん?」
「だいすき」
「ああ、分かってる」
「うん」
しばらく静かに抱き合って、ほら、と背を叩いて少し体を離す。
「刺身の最後のひとパックがなくなるぞ」
「やだ」
濡れた睫毛と頬を、親指で拭ってやる。
「俺が行くか?」
「ううん、オレ行く」
額と、まだ少し濡れた目尻と、最後に唇に二回口付けて笑み合ってから、玄関の扉を開ける。
帰ってきたら、存分に旅館ごっこをしてやる。
せっかくだから、今日は布団でも敷くか?
浴衣は……確かプレイ用にあったはずだ。そうだ、前に一回着せた。それも出そう。
お前が望むなら、俺はいくらでも与えてやる。
叶えてやれないこともあるが、結局、お前が求めているのは、俺なんだから。
→前に一回着せた
それだけのこと △
2012.05.06