克哉=眼鏡、半身=ノマ
「あー、おうあいえんえいえう」
「ああ?」
スーツから部屋着に着替えていたら、半身が唐突に謎の言語を発したからつい強い口調になった。
あんまり乱暴な言葉使うなよとよく注意されるが、時にこうしてフリーダムな半身のせいだから仕方ない。
「口内炎できてる」
言い直した日本語に、ああ、と合点する。
「どこに」
「左のー……下の奥歯あたり」
言われた通り、舌で左の粘膜を探るが、克哉の口内ではそれらしきものは当たらない。
「俺にはない」
「うっそ。あーんして」
「あ」
素直に開けてやった口の中を覗き込む顔がかわいくてつい腰に伸べた手を、容赦なくはたかれた。
「ほんとだ。えー、オレだけなんで」
克哉の眉間のしわだったり、今のこの口内炎だったり、分裂した体の片方には表れているものが、片方には見当たらないということはたまにある。
ふたつの体の僅かな違いは、外に出てひとつの体になった時に混じり合うのか、いつの間にか同じ体に戻っていたりもするし、違いのままだったりもする。
分裂するようになってしばらく経つが、自分たちの体のこととはいえ未だに仕組みがよく分からない。
「ビタミンビタミン。野菜ー豚肉ー卵ー納豆ー。うーん、今日どんぶりでいい?」
「もしかしてそれらを全部混ぜるのか」
「もしかしなくてもそれらを全部混ぜます。おいしいよ。多分」
「なんでもいいが」
仕事中や多少の友人付き合い以外は引きこもり生活を送る中で、料理が趣味になりつつある半身の作るものはなんでもうまくて、克哉は食の面でかなり満足している。
料理をする半身を眺めるのもいいし、後ろからちょっかいを出して怒られるのもいいし、そのまま盛り上がって始めてしまうのもいい。そしてできあがった料理はうまいんだから、何も言うことはない。
三大欲求とはよく言うが、三大どころではない限りない欲求の全てが、この世で唯一である己の半身によってひたひたに満たされている。
ああ俺はお前がいればそれだけで幸せだと大きく脱線して悦に入った頭の中は、早くもこの今どう仕掛けるかでいっぱいになった。
「それよりも」
「え? わっ」
口内炎が気になるのか、口をもごもごさせながらふたり分のスーツにブラシをかけている半身の腕を引いて抱き寄せる。
思わずブラシを落としてしまって、なにもうと目の前でぷんぷんしてるのがかわいくて堪らない。
「舐めとけば治る」
「へっ、んっ……」
唇を塞いですぐさま舌を入れて、確認のために粘膜を探る。確かに左の奥で舌先が異常を捕らえた。そういえば、今日の昼頃から違和感があった気がする。これだったのか。
ひどくならないように、すぐに治るように、おまじないでもかけるように優しくたっぷり舌で撫でてやって、ついでに半身の舌にも絡ませて味わってから唇を離した。
「すぐ治る」
熱を含んだ吐息を漏らす唇をもう一度軽く啄んで、にやりと笑ってやる。
このエロオヤジ、と口には出さずとも、間近で弱々しく睨む瞳が伝えてくる。
「バ、バカ。だったら誰も口内炎で悩まないだろ」
「ふん。つまらないやつだ。もっと舐めてくれたらもっと早く治るとでも言えばかわいげがあるものを」
「そんなので治るなら、自分でいっぱい舐めとく」
虚勢を張ってそっぽを向きつつ、あっさり浮かされて流されるのが癪なだけで、半身だってもうすっかりその気なのは潤んだ瞳と上気した頬としがみ付く指先の温度ですぐ分かる。
素直じゃない半身を、一旦突き放して焦らしてねだらせるのはこの上なく楽しい。
「そうか。じゃあもういいな」
「ぇ……」
怒ったようにわざと冷たく言って体を離すと、どうせあれこれ屁理屈を並べてしつこく迫ってくると思っていたであろう半身は、あからさまにがっかりした声を出した。
思い通りの反応ににやけそうになるのを必死で耐えて、落ちたブラシを拾って半端になっていたスーツの手入れをする。
背後でおたおたする気配に、嗜虐心が満たされる。いやこの程度なら、嗜虐なんて大げさなものではなくて、単にいじめっ子欲なだけの気もするが。
本気で怒ったんだろうか、いやこの程度でそんな、などとぐるぐるしている様子が、視界に入れるまでもなくよく分かる。
散々バカバカ言ってつんけんするくせに、ひどいことを言ってきらわれたらどうしようと心配してる。
何を言われても、何があっても、宇宙がひっくり返ったって、俺がお前をきらうなんてありえないことなのに。
「で、でも……」
また頭の中が脱線しかけたところで、ようやっと意を決した半身が克哉のシャツの裾を引く。無表情を装って振り向くと、もじもじして上目で見やる姿が映ってつい少しにやけてしまった。
「奥のほうだし、結構舐めるの大変だから……」
「だから?」
「その、て、手伝ってくれたら、助かるかも、なんて」
「ふうん?」
この甘ったるい駆け引きが克哉の罠なのはさすがに気付いたようだが、それに掛かってやらないと本当にずっとおあずけされたままになることも、半身はよく分かっている。
克哉の意図通りになることに少し拗ねつつも、ちゃんと求めるものを返してくれるもうひとりの自分が愛おしすぎて心の中で身悶える。
「手伝うって、どうやって?」
「だ、だから、一緒に、舐めたり、とか」
「一緒に?」
「一緒、に」
「こんなふうに?」
「んっ」
引き寄せると、待ってましたと絡まってくる。本当はもう少し焦らしてもっといやらしく誘わせたいが、やりすぎると本気で拗ねて逆におあずけを食らうから、このへんで満足しておく。
拗ねられたら拗ねられたで、怒った顔もかわいいし、機嫌を直してもらうまでの戯れもまた楽しいのだが。
「ん、ん、んっ」
狭い口腔内の小さなポイントを、重ねたふたつの舌でなぞる度に、まるで性感帯を責められているように半身が甘く啼く。これはなかなか斬新だ。
大きく開けた口いっぱいに舌で蹂躙して掻き回して、たっぷりと唾液を注ぐ。
口内炎の原因は不明だが、方便ではなく本当にこれで治ってしまいそうな気になってきたのがなんだかおかしい。
「ん、は、は……」
「これでいい?」
「うん……もっと、手伝って?」
「仕方ないな。お前の頼みなら、無下にもできないからな」
「うん」
はにかみながらも嬉しそうな半身に遠慮なく吸い付きながら、今日もまた遅い夕食になりそうだと心の中で苦笑したところで、ふと、この不規則で不健康な生活が口内炎の一因ではないのかと頭を過ぎった。
最近は休姦日なんて言葉もすっかり忘れて、毎夜寝る間も惜しんでせっせと励んでいる。
克哉は半身を腕の中に抱いて眠ることができるなら、例え三十分いや十分程度の睡眠でもすっきり爽快だ。
だがどうしてもより体に負担のかかる半身は、短い睡眠に朝ぐずることも珍しくない。
なるほどそれは一理あると納得したところで、どうにもできない。
「あっ、あっ、<俺>ぇっ」
お前は俺の全てを満たすのに、俺はお前の全ては満たしてやれない。悪かった。じゃあ代わりに、満たせるところは溢れるほどに注いでやる。
またそんな屁理屈ばっかりと呆れられそうな決意を胸に、淫靡に濡れた声を奏でる半身をベッドの上に押し倒した。
ボーダー △
2012.11.25